自己啓発

古き良き日本人の誇りと武士道を現代に遺した楠木正成公

「武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である」

これは新渡戸稲造の著書:武士道「Bushido: The Soul of Japan」の始まりの部分です。

武士道精神とは、日本の封建社会における武士階級の倫理・道徳規範・価値基準・思想と言われていますが、実はこれといった厳密な定義は存在せず、時代や人により、その解釈は大きく異なるものと言われています。

僕なりの解釈をすると、古き良き日本人の誇りや生き方といった感じですが、歴史を振り返ると、真っ先に思い当たる人物が一人思い浮かびます。

それは、教科書にもほとんど取り上げられることのない短い生涯を、己の信念を全うし、桜のように儚く散った楠木正成公です。

現代に遺してくれたその功績は、まさに日本人としての誇りと武士道精神と言えるのではないでしょうか。

この記事では、楠木正成公の生涯を通して、古き良き日本人の誇りと武士道精神を吉川英治氏の「私本太平記」の物語になぞって、僕なりの解釈でまとめています。

 

 

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私本太平記~みなかみ帖-天皇御むほん

時は北条氏が治める鎌倉時代の末期では、政治のひずみが至るところに噴出しています。

一国の世襲君主の家系が持明院派と大覚寺派の2つに分裂し、10年ごとに両派からかわりばんこに皇太子を立て、帝位を交代していく両統迭立の世。

皇位を承継した後醍醐天皇は、他党へ帝位を渡すことを拒み、自らの退位期限が過ぎても譲位する気配すら見せません。

度重なる幕府の要請にも応じず、公武の亀裂はますます拡大していく中、英邁豪胆な後醍醐天皇は、日野俊基、日野資朝らの側近と共に倒幕を画策するのです。

正中の変で一度は失敗に終わった倒幕計画。

やがて時が経ち、再び倒幕に向け動き出す後醍醐天皇ですが、寸前のところで、またしても幕府に漏れてしまいます。

 

私本太平記~みなかみ帖-笠置の山

身の危険を感じた一行は辛くも都を脱し、笠置の山へと落ちてゆくのです。

迫りくる幕府の追ってと対峙するには兵力が必要なのは言うまでもありませんが、この時のために、檄は国々の武門へと飛ばしてありました。

噂を聞きつけ笠置の山に参じてくる者もあるが、名の知れた武者は一向に現れません。

兼ねてより練られていた後醍醐天皇の倒幕計画。

日野俊基、日野資朝らの諸国潜行の末、奏聞に入れていた武者の名があります。

それは宮方がもっとも待ち望む、大将となるに相応しい河内の住人楠木正成。

やがて弟の正季と共に麾下へと加わり、その生涯を尽くすことになりますが、その忠義の証に後醍醐天皇から下賜されたのが、菊の花が水面に浮んだ菊水の紋です。

 

私本太平記~新田帖

楠木正成は赤坂城や千早城の幕府側との戦いで、神出鬼没のゲリラ戦や地の利を生かした戦術を用い、寡兵でありながらもよく大軍を破ります。

その戦果はやがて国々に響き渡り、各地方で反幕府勢力が立ち上がるきっかけとなりますが、中でも源氏の名門と知られる足利尊氏の呼応は、歴史が動いた瞬間と言っても過言ではありません。

楠木正成が数万に上る幕府軍をで千早城で釘付けにしている間、足利尊氏は六波羅を攻めこれを陥落させます。

やがてこの報せが千早城で戦う両軍に届くと、浮足立って攻撃の手が止まった幕府軍の隙を逃さず、楠木正成は菊水の旗を掲げ、一挙に城を打って出るのです。

六波羅が陥落したと知り、もはや戦意を失っている幕府軍。

菊水の旗の下に降る者が相次ぎ、長きに渡る千早城の籠城戦がここで終わりを向かえます。

さらに足利と示し合わせて反旗を翻した新田義貞の小田原城の戦いも勝利し、約150年に及んだ鎌倉幕府はここに幕を閉じます。

 

私本太平記~風花帖-筑紫びらき

鎌倉幕府との戦いに勝利した後、政権は朝廷の元へと渡り、後醍醐天皇は新しい体制を築いていきます。

ですが程なくして公卿と武家の対立が浮き彫りとなり、この政策は暗礁に乗りあげていくのです。

特に武家の領土問題はこれまでの仕組みを大きく覆すものとなり、これに不満を抱く者も次第に増える始末です。

また鎌倉幕府との戦いで恩賞に預かれなかった者もあり、こうした新政権に不満を抱いた武家の棟梁へと担がれていく足利尊氏は、次第にその勢力を拡大していきます。

こうした状況の中、やがて朝廷との対立が浮き彫りとなり、新田義貞、楠木正成、北畠顕家らの宮方との戦いに敗れた尊氏は、一路九州へと落ち延びていくのです。

 

私本太平記~湊川帖-献言

多々良浜の戦いに勝利し、九州を平定した尊氏は、再び京都を目指して上洛を開始。

後醍醐天皇の命を受けてこの戦いに臨む楠木正成は、はなから勝ち目のない戦と見ています。

建武の新制に望みを失った武家の支持や、短期間で九州での再興を遂げた足利尊氏の破竹の勢いを見ると、時流は次の武家の棟梁を待っている節があると見ていました。

もはや新政権も暗礁に乗り上げ、人心離れは明らかですが、こうした中、この戦に勝ち目がないことを天皇の前で堂々と献言するのです。

しかし命を受けた正成は、己の信念に反しながらも忠義を貫き出陣を決意します。

 

私本太平記~湊川帖-桜井の宿

戦地に挑む正成一行は、その途中、西国街道の宿場の桜井で一族郎党と合流し宿をとります。

ここで死を覚悟した戦いに挑む父の後を追っかけてきた、まだ少年の息子正行と行き会います。

具足を身にまとった正行は初陣を飾り、父と共に死地へと挑む覚悟ですが、これを正成は諫めます。

父から諭された正行は、明くる日300余人の兵と共に故郷の河内へ帰郷することになりますが、これが父子最後の今生の別れとなり、逸話として語り継がれる桜井の別れの場面です。

 

私本太平記~湊川帖-隣なき丘

湊川で最後の決戦に挑む楠木正成は、見晴らしの良い会下山の上に陣を張り、ここで敵を待ち受けます。

ここへ向けて進軍してくる足利直義の手勢1万と対峙することになりますが、対する楠木勢は僅か900余人です。

菊水の旗の下、一つになった決死の菊水兵は阿修羅のごとく奮戦し、倍以上ある兵力差にもかかわらず直義の手勢を苦しめます。

その戦力差が浮き彫りとなった頃、しだいに兵の数も減り、ついには新田義貞が退却を始める有様です。

彼方に尊氏の本営を発見した楠木勢は、僅かな手勢で最後の突撃を試みるのですが、これを一大事と見た高ノ師泰の一団はこれへと駆け付け、敵一面に包囲されてしまいます。

ようやく血路を開いた楠木勢は、ここで最期を悟り、敵のいない無人の集落へと逃げ落ちてゆくのでした。

 

私本太平記~湊川帖-七生人間

古びた小寺に疲れ切った70余人の菊水兵は、枕をならべる最期の座として一堂に会します。

正成から呼び上げられる20名ほどの面々。

この者たちは国に家族を抱えている者や深手の子息や兄弟を残している者ですが、正成から最後の軍令が下ります。

「堂外で物見に立ち、一族の自刃が終わるまで敵を退散させ、さらにはこの先も生き長らえ、余生を尽くせ」と。

死の執着に膠着した20余名でしたが、うむを言わせず、堂外へと追いやられてしまいます。

やがて小寺には澄み切った静寂が流れ、板敷きには51名の膝が二列に並び、どの顔も静かです。

正成は一人一人の顔を痛ましげに眺めると、具足の緒を解き、おもむろに腹巻を脱ぐと、争いのない世を願って、その生涯に幕を閉じるのでした。

 

※軍事教育にも影響した「七生報国」と言う言葉があります。

七回生まれ変わっても、国にあだなす逆賊を撃つことを示していますが、太平記を読む限り、これは楠木正成と正季の最後の会話の中で、正季が言った言葉です。

むしろ、正成は「家には小庭を作り、外には争いのない世を眺めたい」と平和を願っています。

 

楠木正成と武士道

「武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である」

新渡戸稲造は武士道を桜の花に例えていますが、満開に咲き誇る桜の花は誰しもが心を奪われ、散り際がもっとも美しく感じます。

忠義を全うし、己の信念に反しながらも湊川で幕を閉じた楠木正成のその生涯。

凛と咲き、儚く散った桜花。

僕は楠木正成公こそ、日本の武士道の表徴として感じてなりません。

 

私本太平記とは

太平記とは室町時代に成立し、鎌倉幕府滅亡から南北朝時代を描いた軍記物語ですが、その題材をもとに吉川英治氏が執筆した長編小説です。

現代語訳で描かれている作品ですが、古文から訳すときに現代では表現しずらい部分もあり、独特のニュアンスや文脈、表現など少し古文の名残があるのが本作品です。

読書や歴史が好きな人には読みごたえがあって、非常に面白い作品でもあります。

最近は電子書籍でも読めますので、是非手に取ってみてください。

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